第64話   殿様の釣 X   平成15年12月02日  

9代酒井忠徳公(タダアリ17551812)が父の早世により明和3(1766)に摂津守となり翌年家督を相続した。そして18歳になり庄内へ初入部となる。この初入部の際に福島で路銀が切れてしまい14万石の殿様でも・・・と嘆かれたと云う逸話がある。

江戸の中期になると元禄の頃からの奢侈な空気と相まって天候の不順などで不安定な米本位制を取っていたから金が商業資本の豪商達に集まり、幕府は云うに及ばず全国の大名達は財政逼迫と云う問題を抱えていた。ご多分に漏れず138千石(実質20万石位)と云う庄内藩も同じような問題(累積赤字十万両)を抱えていたのであった。

その為忠徳公は自ら率先して倹約に努め士民にも要求、ただ倹約だけでは財政改善は出来ないので流通経済を知り尽くした酒田の豪商本間光丘を士分に取り立て勝手方御用(最終的に300)を命じ、財政改革を行う傍ら農政改革をも断行した。更に人材育成のために藩の学問所致道館(他藩の朱子学を中心とした学問所と異なり、実務を重んじる荻生徂徠の徂徠学を中心とした学問所を創設。各士分の子供の教育を各々のレベルに合わせ五つに分類し、通り一辺倒の教育ではなく個性を重んじ伸ばすと云う自習学習を基本としていた。)を創設している。其の結果、治世の後半には藩の財政を黒字に転換させた名君と称えられている。

注目すべきはこの殿様の時代に心身の鍛錬になるとして元禄よりの奢侈に馴れた武士達に磯釣りを奨励している。これ以後、武芸の一端としての釣芸が生まれたと云われて居る。

この殿様も自ら釣りをしている。17729月に温海に当時をしている。その時の釣の記録は無いが、17733月の領内巡視の際は東風(ダシ)が強くて何も釣れなかったと云う記録がある。東風が収まった23日後に又釣に出掛けアブラコ2匹を釣り上げた。其の2日後釣に出掛け鯛を1枚、アジ20匹を釣ったとある。記録に殿様が鯛を釣ったと出てくるのは忠徳公が始めてである。魚を釣り上げて機嫌を良くしたのか、漁民に迷惑をかけたねぎらいからなのかは定かではないが櫓(やぐら)を組ませ其の上から餅と金をばら撒いている。

丁度この頃「垂釣筌」に寄れば釣れる物なら大物から小物まで中でも釣ると云う名人生田権太が現れたという。この人物加茂湾(鶴岡市加茂)の南の小山から海を見て汐を眺め魚が泳がないと見ればそのまま帰ってしまうと云う人であったと云う。汐に応じて岩をめぐり色々な魚を釣った。今に残る釣岩の名称の大半はこの人が名付け親だと云う。この20年後大物釣専門の名人神尾文吉が出た。この人は蛸を針に付け、針先にマエを付けていたと云う。一度釣に出れば昼夜を問わず釣りをして釣れなければ決して帰らないと云う徹底した釣で必ず大物を釣って帰ったといわれている。「垂釣筌」の作者陶山槁木に寄れば「これ釣家の一変である」と述べている。1800年代の釣は大物を狙うと云う神尾文吉の釣に影響を受け、武士達の釣に迎合し、次第に大物を狙うと云うこの釣り方が主流なって行ったようである。